三陸再訪  その2の1 田野畑から気仙沼まで 2012.9.24-28(前編)

 あの日から1年8か月になる。被災された方のことを思うと胸が痛む。復旧にかかる問題やテンポの遅さが度々報道され歯がゆい思いもする。
 そんな中、少しでも明るいニュースや地元の方達の笑顔にすがりたい思いがある。 私にとっての朗報の一つは、田野畑村の本家旅館が営業を再開したことだった。
 昨年8月ごろの岩手日報でそのことを知った。「旅館はわたしの生きがいだから」、という女将のコメントが添えてある。 公民館などで「普通列車の旅」をテーマに話をするときは、津波の体験も生々しい女将からのあの手紙(注)を必ず紹介する。たった一度の縁ではあるが、もう一度泊まってみたい、更地になったという平井賀の海辺を自分の目で確かめておきたい、との思いを温めてきた。
 その願いをやっと今年(2012年)9月になってかなえることができた。鉄道がズタズタにされたコースを、接続の不便なバスでつなぐことがどんなに難しいかを思い知らされた。
 (注) 第32回目の旅 北東北 前篇 三陸その2                                 2007.7.27-8.3


その2の1 田野畑から気仙沼まで


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      (地図をクリックすると拡大できます)


前篇  田野畑から宮古まで

1日目(9/24)

 大町発7:50 のぞみ、はやてを乗り継いで、二戸からJRバスで17:15久慈着。
 駅に近い旅籠風の旅館に腰を落ち着ける。効率よく乗り換えができた分、11時間以上車中だった。今回は夫婦二人連れ。
 
 当初の計画は、一日目は本家旅館に宿泊の予定だった。おおむねの旅程が出来上がったところで、名物の「どんこ汁」を思い描きながら予約の電話をした。ところが、従業員らしい女性が口ごもりながら、「お泊めできません」という。しまった満員かと思ったが、「女将さんの体調が・・・・・」と口を濁す。やむなく予定を変更して久慈に泊まることになったのだった。

           二戸駅とJRバス
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2日目(9/25)

 早朝、久慈川沿いを散歩。堤防が高い。津波が遡上したが堤防を越えることはなかった。挨拶を交わした男性と道連れになった。川崎製鉄があったこと、メノウの産地で、博物館もあるとか。自宅前まで浸水したという。

        川崎製鉄跡の碑と市役所
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 8:05発の三陸鉄道に乗ることにしている。

       三陸鉄道北リアス線久慈駅(前日撮影)
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 駅前に、「三陸鉄道北リアス線ここに始まる 昭和59年4月1日」の碑が建ててある。
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 切符売り場で「赤字せんべい」を売っていた。甘くておいしい。友人達からも好評だった。
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 「あまちゃん通信 第1号」というパンフレットを手に取ってみる。この地が来年4月から始まるNHKの朝ドラのメインロケ地なので、エキストラを募集中という。

           三陸鉄道の列車
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 高校生でいっぱいだった車内も陸中野田駅を過ぎるとガラガラになった。ここからは先は今年4月1日に運転を再開した。線路は珍しく海沿いの低い場所を走る。壊れた堤防やがれきの集積場が見える。

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 海を見下ろし、長いトンネルを抜け8:50田野畑に着いた。 次の訪問地田老へは13:30の小本行バスになる。

             田野畑駅
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 期待していたサッパ船は海が荒れていて出ない。北山崎に行くことにした。村営の大型バスは採算が合わないので廃止され、その代わりの相乗りタクシーに乗る。といっても客は私たちだけ。おかげで丁寧なガイド付きになった。
 早朝、散歩で立ち寄ったホテル羅賀荘を見下ろす。津波は4階まで来た。再開を目指して工事をしている。

 家人はやはり絶景に心を奪われた様子。定番のおいしいソフトクリームをほおばりながら歩く。ウイークデーでもあり人はまばら。

 本家旅館の女将は最近退院されたらしいというので、思い切って帰り道にタクシーを回してもらうことにした。宿泊はかなわなかったが、せめてあの宿からの光景と、港で見つかり庭に置いてあるという宮沢賢治の「発動機船」の詩碑が見たい。とはいえ事前の電話もしておらず、予後の様子もわからないのに突然伺っていいものかどうか、タクシーの中でずっと迷っていた。しかしせっかくここまで来たのだし、訳を言ってちょっとだけ立ち寄らせてもらいすぐに帰ろうと心に決めた。

             本家旅館
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 庭にいた女性に「ちょっとここから見せてください」と断る。今も鮮明に記憶に残る平井賀の浜には、プレハブの小屋とクレーンが見えるだけだった。なぜかただしばらく茫然としていたような気がする。ふと我に返り、横たえられている詩碑を見に行った。

            平井賀の浜
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          「発動機船」の詩碑
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 さてこれで満足、と立ち上がると、女性に「どなたでしょうか」と声をかけられた。
 「広島から来ました・・・・」というと、女性はすぐに建物の方に戻り、入れ替わりに見覚えのある女将が玄関に現れた。「ちょっと上がってください」といいおいて内に戻る。「バスに乗りますので」と断ったが、奥でがやがやと声がして数人の男女が出てきた。なんということを。見舞いに来た近所の人たちだろうか。私が追い出すことになったようだ。申し訳ないことをした。謝りながらダイニングルームに上がらせてもらった。

 女将の話されるには、ある日突然片足が腫れ、検査してもらったが原因不明で入院。「生年月日は?」とか「今日は何日?」というようなことばかり聞かれました。八十六ですから、とカラカラと笑う。「お疲れが出たのでは?」というと「そういう人もいます」と本人も思い当たることのある様子。

 テーブルに、津波の少し前、四十九日を済ませたばかりだったというご主人の写真が立てかけてある。
 旅館の石垣は、ご主人が研究に研究を重ねて作り上げた頑丈なもので、当時は他人に笑われたものだったが、おかげで今回の津波にも耐えたこと、津波の時は避難所になることも考えてたくさんのむすびを作り置きし、最後に山に逃げたこと、旅館より一段低い場所にあった赤い屋根のご主人の書斎は、本などがみな流されたことなどなど、文芸春秋の別冊「吉村昭が伝えたかったこと」の写真をめくったりしながら話は尽きない。この雑誌は私も保存している。ただ、この写真に女将は写っていない。「私は1分も休まず働いていましたから」とさりげなく言われた言葉に、この旅館を支えてきた小柄な女将の心意気を感じる。

 小本まで車で送るから栗ご飯を食べていくようにとまで言ってもらったが、さすがに時間が迫ってきた。女将の若々しく張りのある声と、ウイットとユーモアにあふれた話しぶりも楽しく、何より元気そうなのがうれしかった。旅館を再開されるかどうかまでは聞きそびれた。不躾な訪問ではあったが、思い切って訪ねて本当によかった。

           本家旅館を遠望
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 車を運転してくれた男性は旅館に野菜などの食材を納入する業者で、震災後仕事も減り暇なので、今日は頼まれたわけでもないが草取りをしていたのだという。
 小本の自宅は電動の防潮ゲートが津波の襲来に間に合わず流され、年金手帳だけが見つかった。皆が助け合っている最中、空き巣に入って多額の金銭を盗んだ者もいたという。犯人は推測がついているのかもしれない。口調には怒りというよりむしろ悲しみの深さを感じた。ガソリン不足や携帯電話のことなど日常で起こった不自由さを、淡々とというかスコーンと突き抜けたような話しぶりに1年半の月日を思う。マスコミの報道もあるのか県の動きには物足らない思いもあるようだった。

 島越駅で車を停めてもらう。「発動機船」の詩碑が奇跡的に残っている。製作者のこだわりで、宮沢賢治が駅ではなく海の方向へ歩いているように建てたためとか。

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 朝日新聞の歌壇に掲載された歌があるので借用する。この風景かもしれない。
 「鉄橋は跡形もなしトンネルが 暗く口開く北リアス線」
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 小本発15:05の列車に乗る。

             小本駅
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田老で下車。この駅から見たありふれた集落を写真に残しているのが今でも不思議な思いがする。
 荒涼とした風景の中を港の方へ歩く。道の海側は高い塀で囲まれ、遠くにホテルなどの建物が2,3見える。小雨が降ってきた。防潮堤の絵が生々しい。

              田老
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            防潮堤の内側
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          防潮堤の海側の絵
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             田老港
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 タクシーの運転手の話によると、集落の高台移転は合意したが、具体的な話はまだ始まっていない。宿泊先の国民休暇村へ向かう道路の左側に、田老から移転した家が集落を作っている。

 早めに宿に入る。



 

 
 
  

 
 


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