三陸再訪  その1 塩釜・石巻 2011.9.7-8

 昨年9月、上京の機会があって塩釜と石巻へ足を伸ばした。帰広後すぐにブログにまとめようとしたが、目の当たりにした光景の衝撃は大きく、気持ちの整理がつかないまま日を過ごしてしまった。
 今年9月には岩手県などを訪ねたので、別に、「三陸再訪  その2 田野畑から気仙沼まで」としてブログに載せる予定。


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1日目(9/7)

 大町発7:27 仙台を経て本塩釜16:18着
 仙石線は5月28日高城町まで開通、その先は矢本まで代行バス。日の短い時節でもあり、松島に宿をとった。本塩釜から塩竈神社まで歩いて参拝した覚えがある。

 駅前広場は緩やかな上り勾配になっている。
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 駅は一段低く掘り下げられている。
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           真新しい改札口
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 塩釜は、幸い津波が比較的低く5m弱だったので駅は無事だったが、それでも駅員の話によると2m位冠水した。5月3日復旧。

 次の高城町行電車まで30分あるので、タクシーで港まで行く。
 運転手の話では、松島湾口の桂島が津波を和らげたというが、通りの家々は点々と歯が抜けたよう。がれきは大方片づけてもらいましたという。

         岸壁に打ち上げられた船
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         津波が突き抜けた倉庫群
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      地盤が沈下 冠水した道路
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 カメラを向けるのもはばかられるような心の内を見透かされたか、「皆が見に来てほしいと言っています」という言葉に、気持ちが少し楽になった。

 電車で高城町まで行き、松島海岸まで戻る。

             高城町駅
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            松島海岸駅
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 津波は駅のすぐ手前まで来た。

2日目(9/8)

 8:20発の代行バスは2台出た。一人旅らしい男性の姿もある。車内は気のせいか重苦しい。

             代行バス
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           陸前大塚駅付近
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            東名駅付近
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            野蒜駅付近
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 この辺りでは線路は左手に移っている。
 野蒜駅で電車がすれ違い、下り列車は高台で止まり難を逃れた。上り列車は民家まで押し流されたが、乗客は逃げて助かったという。

 しばらく鳴瀬川の下流に広がる平野を行き、陸前小野を過ぎる。豊かな穀倉地帯だったのだろうか。

          鹿妻付近で線路と並走
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 矢本駅に着いた。線路が冠水したが、7月から石巻まで電車ではなく気動車で運転を再開している。
             矢本駅
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           石巻駅行きの気動車
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 石巻着9:36
             石巻駅
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 この駅にも津波は押し寄せた。駅前の観光案内所の女性が、若い男性職員を指さして、「肩まで水が来たそうです」という。絶句してしまった。
 
 バスの案内所で、賀状用の写真にも使ったことのある万石浦を通って女川まで行けないか調べてもらうが、バス便が少なくあきらめる。女川駅は好きな駅だった。

 観光案内所で勧められた日和山へ行きたいとタクシーの運転手に告げ、あとはお任せする。
 専用線のディーゼル機関車が穴に落ちて傾き、ロール紙が散乱した日本製紙工場(操業が始まっている)、水没した市民病院、火災で多くの児童が犠牲になった門脇小学校、日本有数と言われた水産加工団地(復旧が始まっている)、石ノ森萬画館などを回ってもらった。

            門脇小学校
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        廃墟の中にポツンと立つ土蔵
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            水産加工団地
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         かさ上げされた団地の道路
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         大和煮缶詰魚油貯蔵タンク
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 住民の希望で解体(2012.7)

         焼け焦げた車やがれき
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            石ノ森萬画館
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 小さな橋を渡る手前で、運転手が、「この辺に建てたばかりの家がありました。もう街の様子がどうだったか思い出せないんです」とつぶやく言葉が胸に突き刺さる。

 日和山に登ると、運転手は役目を終えてホッとしたように帰って行った。

 展望台から、今通ってきたばかりの光景が俯瞰できる。元の町を見たことはないが、たくさんの住宅などが整然と立ち並び、穏やかな日常があったことだろう。

 右手に市民病院が見える。
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 旧北上川の上流を望む。右手河口が港。
 展望台に、「1976年 石巻開港350年」の記念碑が建ててある。
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 山を下りて行くと、飲食店街と思われる通りに入った。
 寺の白壁の背丈ほどの高さに、薄い汚れが筋になっている。この通りも海水に覆われたのだ。
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 広い通りに出ると、改修工事を始めている店もある。
 軒先にわずかばかりの梨を並べている店があった。薄暗い店の奥に初老の男性が座っている。ちょうど喉もかわいたところだった。たった一個で申し訳ない気もしたが、105円払い、心の中で「頑張ってください」という。

 以前泊まったことのある駅前旅館に立ち寄ってみる。営業しているらしく、女将らしい女性がいた。上がり框に立って、自分の肩を指さしながら、「ここまで浸かったが、5月ごろからは2階から泊まれるようにした」という。少し救われたような思いがした。

          駅前の「さかり旅館」
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 12:03の列車に乗り、前谷地で気仙沼線に乗り換え、仮の終点柳津に着いた。駅前で待っている代行バスに2,3人乗り込む。
 駅員に、「この先が気仙沼ですね」と、聞くまでもないことを聞く。「別世界です」と答える。まだ時間的には気仙沼まで往復できなくもないが、バスに乗る勇気はもうなかった。

             柳津駅
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          この線路の先が気仙沼
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 今年に入って3月、友人から中国新聞夕刊のリレーエッセイ「でるた」のバトンを渡された。文字制限600字に四苦八苦しながら書き、掲載された。


          「震災と三陸の鉄道」

 東日本大震災後、鉄道の被害も次第に明らかになっていくうち、相次いで出版された写真集で見る列車などの惨状に、私は重ねて打ちのめされた。
 JR全線を普通列車で乗り尽くそうとするせっかくの旅なのに、見所を素通りしたことも度々だった。しかし、4年余り前の三陸を縦貫する鉄道の旅は、吉村昭著「三陸海岸大津波」を携え、途中下車を繰り返し、思い出深い。宿や街角、列車内で交わした会話の数々さえも今も記憶に残っている。
 何が起こったのかをこの目で確かめたくて、昨年9月、仙石線で石巻を訪れた。沿線や街々はテレビの映像とはまた別の世界。やっと営業を再開した駅前旅館のおかみの話が唯一の救いだった。早朝、魚市場まで散歩した気仙沼にも行きたかったが、柳津で待っていた代行バスに乗る勇気はなかった。
 明るい話題もある。三陸鉄道は2週間余りで区間運転を始めた。平成26年に全線復旧を目指し、工事が始まっている。一方、JR気仙沼線と大船渡線、山田線は高速輸送システム(BRT)というバスでの復旧も検討されていて、地元では鉄道網の分断を危惧しているという。
 広島は原爆投下後2日目に山陽線、3日目に広電が運転され、人々を勇気づけたエピソードもある。将来、鉄道に戻すことも否定されてはいないが、BRTか鉄道かを迫られる地元の方のことを思うと胸が痛む。
 「ひとり旅で 言葉交わしし人想う 津波逃れて生きてあれよと」



 



 
      




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