第32回目の旅 北東北 前編 三陸その2 2007.7.27(金)-8.3(金)

(三陸その1からのつづき)


3日目 7月29日(日)

 盛岡6:43発 花巻で途中下車。駅には「花巻東高校 甲子園出場」の横断幕が掲げられている。
 (注 菊池雄星が活躍し、県立佐賀北高校が優勝した年。)
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            (花巻駅)


 地下道をくぐり駅裏の公園に保存されている「馬面電車」を見に行く。
 この花巻電鉄の電車はデハ3といい、東北で初めての電車として、花巻駅と花巻温泉郷を結んでいた。
 昭和47年廃止。幅1.6mで、座席に座ると乗客の膝が触れ合うほどの狭さだった。高村光太郎や宮沢賢治も乗ったと。大切に保存されている。公園のそばの狭く真っ直ぐな道は軌道の跡。
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        (旧花巻電鉄の「馬面電車}


 平泉には9:09に着いた。
 2時間半あるのでサイクリング自転車を借り、柳之御所資料館を経て高館に登る。義経堂からしばらく眼下にゆったりと流れる北上川や束稲山を眺める。「夏草や兵ものどもが夢の跡」の句碑が建ててある。
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           (高館義経堂)

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        (北上川 上流方向を望む)

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            (束稲山)

 中尊寺は3度目になるがやはり足が向く。日曜日ということもあってか人が多く、拝観しようにも立ち止まることさえできない。初めて友人と訪れた頃はまだ覆いがなく、芭蕉の句が自然に口をついて出そうな雰囲気さえあったのに、様変わりしたものだ。
 (注 2011.6世界遺産登録)

 思いのほか時間が経ってしまっていて、アップダウンのある国道を、懸命に自転車をこいで駅へ戻った。今度こそはと思っていた毛越寺をまたもや逃がしてしまった。なんと算段の悪い。

 盛岡に戻り、13:46発の快速「リアス」で昨日来た山田線を茂市まで突っ走る。15:35発の岩泉線にすぐに接続。この列車は3本あるうちの2番列車で、1番列車は7:01発である。
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         (快速「リアス」宮古行き)


 押角駅で高校生が一人降りる。駅の近くには家は2軒だけとか。
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            (押角駅)

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           (終点の岩泉駅)

 (注 岩泉線は、その後2010.7/31の土砂崩れにより現在運休中)

 岩泉からバスで小本に向う。クラブ活動帰りという高校生が集団で乗ってくる。都会の子どもと較べるのもどうかとは思うが、爽やかそのもの。つい声をかけたくなる。

 駅は高架になっていて、売店のある立派な造りだった。

 田野畑駅18:02着。
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            (田野畑駅)


 今夜の宿は吉村昭さんの常宿「本家旅館」。海側からだらだら坂を登った高台に建っている。見晴らしもよい。疲れると東京からやってきて長逗留された。小説も書いた。
 夕食では電話で確かめておいた「どんこ汁」を味わう。どんこという魚は黒くてグロテスクな姿をしているが白身でおいしい。地酒も旨い。強行サイクリングのおかげかあっという間に眠ってしまった。
               291.4km(JRのみ)


4日目 7月30日(月)

 朝早く起き散歩。海沿いのトンネルを抜けると、崖の下に「ホテル羅賀荘」がある。あの本(吉村昭さんの「三陸海岸大津波」)には羅賀の中村氏(85歳)の話として、明治二十九年の大津波では海水が50メートル近くも這い上がってきたことになると記してあるが、それがこのあたりのことであろうか。津波の高さを実感する。
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        (ホテル羅賀荘からの景観)


 お手伝いさんの案内で、吉村昭さんが使われていた5号室を見せてもらった。海の見える二階の二間つづきで、今は使っていない。
 女将さんの話では、この旅館はこの家から他家に嫁いでおられた方が明治二十九年の大津波のあと建てられたもので、昭和八年の津波では警察fが詰め、死体置き場になったと聞いているとのことだった。
 本には、「女主人は、津波が来襲する直前海が沖に急激に引いて、海底が広々と露出したことも口にした。」と記してある。

 (注 3月27日の読売新聞に、見覚えのある女性の写真が載っていて驚いた。旅館二階のベランダから跡形もなくなった海辺を見下ろしている。それは本家旅館の女将畠山照子さん(84歳)で、「ここを離れる気持ちになれない」とたった一人で旅館にとどまっている、というキャプションが添えられていた。

 被害の大きかった地域と違い、田野畑村のニュースは全くなくて気にかかっていた。「ご無事だったか」と心底うれしく、すぐにお見舞いの手紙を書いた。

 4月11日、達筆で丁寧な手紙が届いた。無論私信なので披露はできないが、貴重な体験談として要点だけでも掲載することをお許しいただきたいと思う。

 「・・・・玄関先でお話を交わしてもう4年にもなるとは月日の経つのは早いものでございます。」で始まる手紙は、経験した人ならではの体験が息苦しいほどに胸に迫り、知らず知らずのうちに涙が滲んできた。

 裏山へ登る途中後ろを振り向いたとたん当館屋根の上にドーンというもの凄い音とともに真っ白な浪しぶきを目にしたこと。平井賀はあの非情な浪が一気に飲み込み更地にしてしまったこと。昭和八年の津波を経験したご主人の言葉は「命はテンデンコ」。旅館は堅固な石垣と塀に守られ残ったこと。これもご先祖や四十九日を済ませたばかりのご主人のおかげと感謝しておられること。などなど。

 気持ちばかり添えたお見舞いのお金には、「私どもに対する気持ちだけで充分にあり難く涙しております。」と丁重な断り書きがあった。何よりうれしかったのは、「来春に向ってもう一度立ち直り、おいでをお待ちします。」と結んであったことだった。何度も繰り返し読んだ。

 今はとてもその気になれないが、いつの日か必ず訪ねたい。)

 田野畑駅で三陸鉄道北リアス線のフリーきっぷを求め、7:55発のレトロ調気動車「さんりくしおさい」で再度宮古に戻ることにする。
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       (「さんりくしおさい」宮古行き)


 田老で途中下車。

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            (田老駅)

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         (車窓から望む田老の家並み)


 広い道路を海の方向へ向って歩く。と、松林の間から異様なものが黒々と目の前に迫ってきた。やっと本にある巨大な防潮堤と気がつき、一瞬息を飲む思いがする。 海側の壁面には少しでも景観を和らげようとするのか、女子美大の学生により花の絵などが描かれている。
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         (高さ10m余の防潮堤)

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        (同上 観光船デッキから)

 土産物屋の主人に津波の経験があるか聞いててみると、是非はともかく、あの本をほとんどそらんじているかのような内容の話をしてくれた。ここを訪れる人たちから、しばしば防潮堤のいわれなどを聞かれるのだろうか。
 港の入り口の崖に、何度かの津波の高さを示す表示板が取り付けられているのが見える。
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       (崖に取付けられた津波の表示板)


 友人達の土産にと、鮭の中骨の缶詰を買う。ラベルに、1986年宮古水産高校が開発、1992年宮古漁協発売と記してある。

 観光船「ウミネコ」で浄土ヶ浜へ行く。客は自分一人だけ。すれ違った船には団体客が鈴なりだった。
 船員さんがずっとそばで案内してくれた。ローソク岩などの絶景を遠望し、写真で見慣れたとんがった岩のそばをかすめたりする。
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           (ローソク岩)

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        (浄土ヶ浜の岩をかすめる)


 浄土ヶ浜から宮古行きのバスは、市街に近づくに従ってお年寄りでいっぱいになり、病院の前でいっせいに降りていった。

 宮古発11:18の列車で再び田野畑に舞い戻り、北山崎行きのバスに乗る。月曜日というのに意外と乗客が多い。

 高さ200mの崖から見下ろす奇岩と太平洋は豪快、絶景。田野畑牛乳特製のソフトクリームが美味い。
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           (北山崎の絶景)

 帰りの道では海に落ちていくような錯覚を覚えた。今朝散歩したホテルをはるか遠く眼下に見ながら田野畑駅に戻る。

 13:55の列車に乗り、終点の久慈駅で三陸鉄道からJR八戸線に乗り換える。
 間もなく種差海岸が見えてきた。
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            (種差海岸)


 (注 八戸線は現在久慈ー階上間が不通になっている。上りの列車と交換する際たまたま階上駅をカメラにおさめたのも何かの縁を感じる。)
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          (階上ーはしかみー駅)


 17:56野辺地着。線路沿いに日本で最初という見事な鉄道防雪林が立ち並んでいる。
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         (野辺地駅の鉄道防雪林)
           
              116.3km(JRのみ)


 吉村昭さんは、津波は必ず再度やってくると強調しておられた。そうなのかと頭の中では納得しながらも、私はといえば、どこか懐かしいような車窓風景や、言葉数は少ないが情にあふれた多くの人たちに出会うたび、あの本に書いてあるようなことが繰り返されてなるものかとの思いを胸に抱き続けていた4日間だった。
 今はただ失われた鉄道、町や村、それよりも何よりも、何にも代えることのできない多くの人の命を想う。ただただ一日も早い復興を願うばかりだ。


                       
余談

 昨年(2010年)、普通列車の旅をテーマに公民館や旅のグループで話したことがある。また、思いがけず中国新聞の文化欄に写真入りで取り上げられたりもして、記事の大きさに驚いた。
 
 友人の勧めで広島市まちづくり市民交流プラザのボランティアに登録。それがきっかけで市の老人大学院(150人)で話すことになったのは、東日本大震災の後しばらく経ってからのことである。

 気軽に引き受けたがだんだん気が重くなってきた。以前は楽しかったことや失敗したことをお気楽に話していたのだったが、当然三陸の旅についても触れることになる。格別印象の深い旅だっただけに、逆にいろいろと辛い思いにとらわれてきてしまった。考え過ぎのようでもあるが、どう話せばよいのか、それよりもこんな時期、こんなのんきな話をするのはどんなものかなと、夜中に目が覚め柄にもなく考え込んだりした。

 多少気持ちの揺らいだまま7月下旬、その場に臨んだが、結果はというと、素人というか時間配分が悪く、尻切れトンボに終わってしまったのだった。

 話す機会は幸運にも1ヵ月後もう一度やってきた。
 
 日増しに被災された方達の思いや声が聞こえてくる。幸い徐々に元気を取りもどされている話もある。「心を寄せてくださるだけでうれしいです」 「忘れないでください」 「東北地方へ旅行においでください」・・・・。

 そうか、私が三陸の旅のことを話すのは意味のあることなのだと、少しずつ自信のようなものが湧いてきた。こんな機会はそうたびたびあるものではない。ようやく、最初に頼まれた頃の自分に戻って話そうと、気持ちを立て直すことができたのだった。


 

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